Paralyzer
やめるつもりだった水泳を再開すると決めて、その足で水泳部に入部届けを出しに向かった。夜中に無断で侵入したことはあっても、部員としてこの鮫柄学園のプールに入るのは初めてだった。
強豪校と呼ばれるだけあって、設備は完璧だ。凛は改めてそれを確認しながらプールから上がり、ゴーグルを外した。
部活動として定められた時間が終わるのはまだ先だが、あまり遅くまで居るとシャワー室が混み合うだろう。そう思ってプールに背を向け、タオルで身体を軽く拭う。
「もう上がるのか」
「……」
部長の御子柴に声を掛けられ、凛は頷きだけを返した。御子柴はそんな凛の態度には気を留めずに笑う。
「まだここのプールには慣れてないだろうし、明日から頑張れよ」
「はい」
今度は返答して、凛はタオルを片手にシャワー室へ向かった。
プールから上がるとすぐにあるシャワー室は広く、幾つものブースに分かれている。シャワーブースの数は、以前通っていたスイミングスクールよりも多いかもしれない。留学先よりもまずそこと比べてしまい、凛は内心で舌打ちをした。こんなことを考えてしまうのは、遙を意識しているせいだと自覚しているからだ。
手に持ったタオルをぎゅっと握り締め、小さく頭を振る。今度こそ。今度こそ、遙に勝たなければならない。目の前の壁を超えなければ、本当に目指すところには手は届かない。
練習時間が終われば湯気でいっぱいになるのだろうシャワー室は、まだそれほど湿っていなかった。凛は手近なブースに入ろうとして、自分以外に誰かがシャワーを使っていることに気がついた。
入口から一番手前のブースから、水の流れる音と湯気があがっている。大して気にせず、ひとつあけた隣のブースを使おうと一歩踏み出した凛の耳に、シャワーが止まった音が届いた。ついそちらに視線が向く。
「あ、松岡先輩」
たった今までシャワーを浴びていたのだろう、頬を上記させて出てきたのは、後輩の似鳥だった。タオルでごしごしと髪を擦りながら、照れたような笑顔を向けてくる。
「先輩ももう上がりですか?」
「……」
返事をするのも面倒で、凛は隣のブースの扉を開けた。似鳥が出ていくのなら、間にひとつブースをあける必要もない。
「何だか思い出しますね、大会の時のこと。あの時もシャワー室で会いましたよね」
「……そうだったか?」
足を止め、眉を寄せて思い出そうとする。だが、特に似鳥のことは思い出せず、凛は怪訝そうな顔をした。
「あ、いえ、思い出せないならいいんです」
似鳥が少し照れたように笑い、軽く会釈をした。
「それじゃ、お先に失礼します」
「……ああ」
頷きを返して、凛はシャワーブースに入った。水着を脱いで、熱い湯を浴びる。プールを上がってからの僅かな時間でも身体は少し冷えていて、そ
こに熱い湯が降り注ぐのは純粋に気持ちが良かった。
凛は備え付けられたボトルからシャンプーを掌に出し、それからふと動きを止めた。
あの時。あの大会。そうだ、似鳥が言っていたのは、例の大会の後のシャワー室でのことだ。
完全に忘れていたと思った記憶がよみがえり、凛は頭からシャワーを浴びたまま目を見開いた。
大会の後のシャワー室は混雑していた。
「うわー……混んでるね……」
「すぐに空くだろうし、ここで待ってよっか」
いっぱいになったシャワーブースを前に、真琴が眉を下げる。それに渚が笑顔で答えるのを、凛は眺めていた。つい先ほどの優勝に気持ちは昂ぶる
ばかりだが、思わぬところで出鼻を挫かれたような気分だった。
興奮のために忘れていたが、身体は徐ーに冷えつつある。少しばかり気持ちが冷静になるとそれが尚更強く感じられて、凛は身体を小さく震わせた
。それを目ざとく見つけたのは遙だ。
「寒いのか」
「べつに」
皆が寒がっていないのに、自分だけ寒いと思っているのは何だか恥ずかしかった。強がって否定してみたが、遙の声はすぐ隣にいた渚の耳にも入っ
ていた。
「あ、ひとつ空いたよ! リンちゃん先に入りなよ」
「……そうする」
笑顔で促されて、断るのも躊躇われた。それに、どうせすぐにまたほかのブースが空くだろう。凛は渚の好意に乗ることにして、先にシャワーブー
スに入った。
「さっむ……」
水着を脱ぐより先に、まず湯を出した。頭上から降り注ぐ湯は熱いくらいで、冷えていた身体の表面が少し痺れてぴりぴりする。
周りのどのブースでもシャワーの音が響いていて、思わず口からこぼれた独り言は誰の耳にも入っていないようだった。凛はしばらく黙ってシャワ
ーを浴び、身体を暖めた。
少し遠いところで、渚と真琴の声がする。どうやら彼らもほかのブースに入れたようだった。それで安心して、凛は肩からほっと力を抜いた。
その時だった。
「あ」
ブースの扉が開けられて、凛は慌てて振り返った。凛よりも少し身体の小さい、下級生だろうか。寒さで唇を真っ青にした少年が、困った顔で凛を
見つめ返している。目元にほくろがある、凛よりは背の低い少年だった。
そういえばシャワーを浴びることを優先しすぎて、ブースの扉をきちんと閉めていなかった。シャワー室全体には湯気が充満しているから、遠目か
らだとこのブースには誰も居ないように見えたのかもしれない。
「ご、ごめんなさい」
俯いてしまった少年を前に、凛は少し躊躇った。さっき、寒がっていたら先を譲って貰えた。こいつは唇を真っ青にしているのに、俺は追い出すの
か。咄嗟にそう思ってしまい、凛は出て行こうとする少年の腕を掴んだ。
「一緒に浴びればいいだろ」
少しぶっきらぼうな口調になってしまうのは、照れくさいからだ。
だが、少年にはそれで十分だったようだった。ぱあっと少年の表情が明るくなる。
「ありがとう!」
「ん」
凛はこくりと首を縦に振り、身体をずらして少年にシャワーを浴びさせた。そうしてから、今度こそブースの扉を閉じる。また間違えられてはかな
わない。
シャワーブースは子供ふたりが入る分には十分広かった。少年がシャワーを浴びている間に水着を脱ぐ。ごそごそ屈んでいる凛の横で、少年もまた
水着を脱いだ。
二人して裸になってシャワーを浴びているのは少し奇妙だったが、少年が心底ほっとしたような表情になっているのを見れば気にならなくなった。
先ほどまで青かった唇も血色を取り戻している。
「あー……寒かった……」
ため息をつく少年に、凛はボディソープを手に取りながら首を傾げた。
「お前、決勝には出てなかったよな。なんでまだシャワー済ませてなかったんだ」
「決勝戦見てたら夢中になっちゃって」
「ふうん」
照れくさそうに笑う少年に、こちらが恥ずかしくなる。彼が夢中になっていたと言うのが、まさに自分たちの決勝レースだったからだ。優勝した瞬
間の気持ちがぱっと胸の内を駆け巡り、凛は少しばかり頬を染めた。
「ねえ、さっきの優勝チームだよね。すごく速いんだね」
憧れの視線を向けられて、凛は顔が一層熱くなるのを感じた。
「まあな」
肯定すると、少年はますます瞳を輝かせた。
「いいなあ! でも、僕、予選で落ちちゃったんだ。鍛え方が足りないのかなあ……。きみ、僕より背も高いし、腕とか、脚とかもかなり違うよね」
凛の目の前で、少年の表情はくるくる変わる。あっという間に気落ちしたかと思うとすぐに気を取り直し、次は凛の身体を観察し始めた。そればか
りか、ぺたぺたと胸や腹に触ってくる。
拒絶するべきかどうか、迷ってしまったのは少年が憧れを全面に押し出した態度をとっていたからだ。このくらいならいいか、という妥協もある。
だから凛はシャンプーで髪を泡立てながら視線を逸らし、気にしていない振りをした。ひとおり泡立てて、目を閉じてシャワーで流す。
「あれ?」
少年が不思議そうな声を出したのは、その視線がどんどん下がっていってからだった。シャンプーを流し終わり、目を開いてみる。少し下の方をじ
っと見つめる視線の先は、ちょうど凛の股間のあたりにあった。
「えっ、おい、なんだよ……うわっ!」
「ここはまだ僕と一緒なのかなって思って」
少年の指先が、ちょん、と凛のペニスに触れた。思わず声を上げてしまい、凛は一気に赤面した。なんで、なんで触るんだ!
混乱する凛を尻目に、少年は屈みこんで凛のペニスをじっと見つめている。かっと凛の全身を駆け巡った羞恥心は、すぐにもやもやとした不安に変
わった。
水泳の時は必ず水着を着ているし、そもそも普段からほかの誰かの股間をじっと見たりすることなんてない。少年に凝視されているうちに、何かお
かしいのだろうかという疑問が浮上して、凛は困惑したように眉を寄せた。
「な、なにかおかしいか」
縋るような声になってしまったのが恥ずかしく、顔の熱がなかなか引かない。
「きみのおちんちん、僕と一緒だよね。上級生ってもうちょっと違うのかと思った」
違う? 違い? それが何を指しているのかわからない。下級生の彼がわかっているのだろうか。具体的にどう違ってくるのかが気になったが、そ
れを下級生に訊くのはとてつもなく恥ずかしいことのように凛には思えた。
「どこが一緒だって言うんだよ」
わかっていないことを誤魔化すために少し強い口調で言うと、少年が屈んだ姿勢のまま凛を見上げた。
「うーんと、おちんちんの形かなあ」
少年の指先が凛のペニスをちょんちょんと突く。敏感な部分を無遠慮に触られて腰が引けそうになるが、それよりも少年から見て本来どこが違って
いるべきなのかが気になった。
黙って好きにさせていると、少年は止められないことで気をよくしたのか、凛のペニスを弄りだした。垂れ下がったそれを摘まんでまじまじと眺め
、それから指先で揉みしだくようにして確かめる。
「……っ」
そうやって弄られていると、何だか腰にぞくぞくするような感覚がこみ上げてくる。くにくにと先端を覆う皮をこねられると、その感覚がより一層
強くなった。
だが、少年は決定的な言葉を言わない。顔をしかめたまま、凛は与えられる奇妙な感覚を拳を握り締めて耐えようとした。
「あっ、ちょっと硬くなった」
「えっ」
ペニスが硬くなったことなんてない。いよいよ何かおかしいのかと、凛は顔を青ざめさせた。思わず股間を覗きこむと、少年が言った通り、ペニス
が少し頭をもたげている。自分のペニスがこんな状態になったところなど、見たことがない。
「なっ……なんだよこれ!」
「だいじょうぶだよ、僕もたまにこうなるから」
「ほんとかよ」
ほとんど怒ったような調子で噛みつくが、少年はにこにこ笑ったまま凛に自分のペニスを示して見せた。
「ほら」
「……ほんとだ」
少年のペニスもまた、凛のものと同じようにわずかばかり角度を上げている。比べるようにその先端をちょんとくっつけられ、凛は飛び上がった。
「ひうっ!」
「え?」
少年は平気そうな顔をしている。それなのに凛は過敏に反応してしまった。
「なんでもないっ」
凛の反応を不思議に思ったのか、顔を見上げられる。慌てて取り繕うと、少年はほっとしたように笑った。
「なんかこれ、ちょっと気持ちいいね」
「う……っ」
そう言って、ペニスの先をぐりぐりと押し付けてくる。指とはまた異なる弾力を持った感触に、凛のペニスがまた硬さを増した。
言葉ではっきり言われてみると、腰をびりびり震わせるようなこの感覚は気持ちがいいのかもしれなかった。自覚してみると本当に気持ちがよくて
、脚から力が抜けていきそうになる。
「ん、はあ……」
ふらり、と傾いだ身体がシャワーブースの壁にもたれる。身体の角度が変わったことでシャワーの湯が股間に直接あたり、凛は熱いため息を吐き出
した。
「これね、大人のひとはおちんちんを擦るんだよ、んっ、こうやって」
「あ、あっ、あ!」
少年がふたりのペニスをまとめて掴み、ごしごしと上下に擦りはじめた。凛の顔は既に真っ赤に染まり、ぼんやりと少年の手を眺めている。少年も
また頬を染めて、喉の奥で小さく声を上げている。
おかしい。こんなことおかしい。
そう思いながらも、凛はどうしてもそれを止められなかった。少年の手は小さく、まだ十分に発達しきっていないペニスですら彼の手には少し余っ
た。ついそこに自分も手を伸ばしてしまったのは、少年の慣れない手つきが物足りなかったからだ。
「ふ、あ、あっ」
「んっ……くう……」
手で擦り上げる摩擦だけでなく、シャワーがすっかり勃起したペニスの先端に当たる刺激。尾?骨のあたりから背中へと何かが駆け上がっていくよ
うな感覚に、半開きになった凛の唇から唾液が滴った。少年も眉を寄せ、じっと凛の顔を見上げながら手を止めない。
「はあっ、あっあ、あああ……!」
「う、わっ」
ひときわ強い痺れが駆け抜けていって、凛は腰をぶるぶると震わせた。立っていられなくなって崩れ落ちる。一緒に引きずり落とされるようにして
、少年もまた床にへたりこんだ。頭からシャワーがびしゃびしゃとかかる。
「び、びっくりしたー……だいじょうぶ?」
「……だいじょうぶ、だ」
まだ少し呼吸は荒いが、なんだか落ち着いてきた。勃起していたペニスもほとんど下を向いている。肩を上下させ、凛は薄目でそれを確かめてから
、目の前に膝をつく少年を見上げた。立っている時は凛の方が背が高かったのに、こうして見下ろされると何だか自分が目の前の下級生よりも更に年
下になったような気分になる。
「ほんとにだいじょうぶ?」
「ちょっと足が滑っただけだって」
シャワーのせいで顔にかかった髪をかき上げ、ぶっきらぼうに返事をして目を逸らした先には、少年のペニスがぶら下がっている。驚いた拍子に縮
こまったのか、先ほどよりはずいぶんと角度を落としたそれを見て、やっぱり自分は変ではなかったのだと内心で安堵した。そう思うと少し笑えてき
て、凛は少年を見上げたまま、初めて彼に笑顔を向けた。
「わ……」
ぱっと少年が頬を染める。そうして、彼もまたじわじわとその顔に笑みを広げていった。
少年が急にシャワーブースの扉の方へと顔を向けたのは、その時のことだった。
「おい、どこだよ愛一郎! もう行くぞー!」
「ごめん! 今行く!」
呼んでいるのは彼の仲間だったようだ。さっと立ち上がり、少年は申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんね、呼ばれてるからもう行くね」
「……おう」
ついさっきまでお互いのペニスを押し付けあっていたことを思い出し、凛は視線を逸らしたまま頷いた。ブースの扉を開けて、少年が飛び出してい
く。ぺたぺたという足音が遠ざかっていくのを聞きながら、凛はぼんやりと未だ降り注ぐシャワーを見上げた。
まだ、しばらく立ち上がれそうにはなかった。
あれから、何年経っただろう。あの時の少年が言っていた幾つかの言葉の意味を、凛はとうに理解している。小さかった身長は伸び、全身には鍛え
上げられた筋肉がついた。まだ未完成の、それでも限りなく大人に近い身体にシャワーを浴びながら、凛は子供のころの記憶に真っ赤になっている。
そうだ、そういえばあいつは仲間に愛一郎と呼ばれていた。似鳥の名前が、確かにそれだったはずだ。
「くそっ……あの時のあいつ、じゃねえか……」
まだ幼かった自分になんてことをしてくれたんだ。そう思わなくもないが、当時自分にとんでもないことをした少年、似鳥は、一応凛よりは年下だ
。
思い出したことによって怒りがこみ上げないわけではないが、もう何年も前の、自分自身忘れていた出来事を今更蒸し返して怒るのはおとなげない
。しかも、蒸し返すためには年下にいいようにされたことを認めなければならないのだ。
「……チッ」
過ぎてしまったことは仕方がない。あの時は、自分も、そして相手も十分な知識を持っていなかったのだ。
そうやって自分を無理矢理納得させることにして、凛はシャンプーを泡立ててぐしゃぐしゃと髪を掻き回した。
一度は忘れていたはずの記憶は、今度また忘れてしまえるまでにはしばらくかかりそうだった。