ある夜の出来事

 自分が何かに感動できるたちだったら、この人生にも幸福というものを見いだせたのだろうか。久宇舞弥はふと、そう考える。
 衛宮切嗣の道具として生きている舞弥だが、道具は道具なりに大切に扱われていた。切嗣に付き従うことで、舞弥は今までに見たことのなかった多くの景色を眺め、また多くの人々と出逢った。世界を旅し、殺し、食べ、眠り、身体の一部かと錯覚するほど武器を扱い、そして時には平穏を味わった。舞弥は監視されていなかったし、行動を制限されてもいなかったが、彼女は目的なしに切嗣の傍を離れたりはしなかった。そしてそれは確かに彼女の自由意志による選択だった。彼女には自分自身が切嗣の、より役立つ道具であろうとすることに努力を惜しまない。
 舞弥は数えきれないほどこなしてきた任務の中で、今、綺麗に飾られたテーブルでシルバーのカトラリを扱っている。染みひとつないクロス、鏡のように磨き抜かれたナイフ。皿に盛られたステーキのソースまでもが美しい。
 優雅な動作で肉塊を切り分けて唇に運ぶ。咀嚼する。飲み込む。テーブルのグラスをとり、赤い液体で唇を湿らせる。だが、その一連の動作を行いながら、舞弥の心は全く動いていない。任務上、今回の殺害対象を監視及び状況によっては暗殺を実行するために訪れたレストランだからだろうか? いや、そうではないことを舞弥は知っている。これが例え純粋なオフでの食事だったとしても、舞弥は感動したりはしなかっただろう。久宇舞弥は、そういう女であった。また、それと同時に、そうあることを暗黙のうちに求められていることを知っていた。
 この食事は、自分の人生で食べてきたもののなかで一番美味しい。舞弥は理性的にそう考えた。素材の質、調理方法、味付け、どれをとっても一流であることは、彼女自身のあまり幸福とはいえない経験からも判断できた。だが、それだけだ。何の感動もなく黙々と肉を口にする。今夜は一切アクションを起こす必要がない。相手に気づかれて攻撃を受けない限りは、舞弥も、また彼女の向かいの席に座ってグラスを傾けている切嗣も安全だった。ほどほどに歓談しているような素振りで、彼らは静かに対象を観察している。
 何ヶ月も前から予約で埋まっているレストランのディナーを黙々とつつきながら、切嗣が視線を僅かに遠のかせた。彼が煙草の喫えない場所で、ふとその存在を思い出したときの仕草であると、舞弥は知っている。彼らは標的に怪しまれないように、ある程度の時間をここで過ごすと決めていたので、つまり切嗣はあの煙を吸い込むまでもうしばらく我慢しなければいけない。機械のように動くことの多い彼が、ひさしぶりに見せる人間らしい仕草であった。普段あれほど苦々しい表情で喫っているくせに、いざなくなってみると恋しく思うものなのか。舞弥は煙草をやらないので想像でしかないが、それでも正解からはそう遠くないはずだ。
 舞弥は彼の様子を視界に入れたまま、ゆっくりとカトラリを操った。会話を遮らない程度の音量で淡く流れてくる音楽。笑いさざめく人々の声。ここでは空気までもがふわふわと芳醇な香りを発しているようだった。当然ながら、硝煙の匂いなどかけらもない。給仕が全てを見計らったようにあらわれ、滑らかな動きでメインの皿を下げていく。テーブルの間を邪魔にならないように回遊する給仕たちはさしずめ白と黒の熱帯魚だった。
 舞弥の正面では、切嗣が舞弥に見惚れるふりで標的を観察している。舞弥もまた、指輪に模した小さな鏡でちらりとそちらを見やった。きらきらしい装飾が施されたハンドバッグには小型のカメラが取り付けられており、詳細な情報は後で確認できる。あくまで目視による監視を行うのも、今夜の目的だった。決行するかどうかを決断する材料として、いわゆる勘というものも重視するべきである。
 食事があらかた片付いた頃、切嗣はおもむろに身を乗り出し、舞弥の手をとった。愛を囁きでもするかのように、そっと顔を寄せる。その手許で、トン、と小さく叩かれる指先。サインだ。今夜、決行する。舞弥は顔に笑みを浮かべてそっと小首を傾げた。了承のしるし。段取りは事前に幾つも取り決めてあって、その中のひとつを切嗣は選択した。舞弥はそれに従うまでだ。
 舞弥は音もなく席を立ち、化粧室に向かう。ロングドレスの衣擦れの音を聴きながら、優美な仕草で柔らかな絨毯を踏む。ピアスが外れてしまったので、それを直そうとしているが、鏡なしではどうもうまくいかない。そんな素振りをしながら。
 指先で鋭く尖ったピアスを転がす。これが今夜の武器だ。ターゲットの男が化粧室に居て、今にもそこから出て来ようとしているのは、男性用化粧室に設置した小型カメラで確認して既にわかっている。あとは計画通りに動くだけだ。
 舞弥はうっかり間違えた風を装って男性用の化粧室に踏み込み、折良く出てくるところだったターゲットに接触した。きゃっ、と小さな悲鳴をあげることを忘れない。その瞬間に、ピアスは男の胸ポケット、ちょうど心臓の位置に滑り込ませた。ピアスの留め具はそのまま床に落としておく。
「気をつけろよ!」
「ご、ごめんなさい」
 まずは驚きの表情。それから、男の背後に表示された、男性用というプレートを確認。再度男に視線をもどし、蔑んだような顔を見る。続いて赤面。慌てた様子ですぐに振り返って、今度こそ女性用の化粧室へ入る。そのままたっぷり10分間待って、化粧室から離れる。化粧品のすぐ近くで、切嗣のもとに引き返すべきかどうか逡巡する様子を見せてから、近くを通った給仕を呼んだ。
「どうしましょう、化粧室でピアスを片方落としてしまったようなの」
「化粧室、ですか」
 給仕が不思議そうな顔をするので、舞弥は続けて言う。
「実はさっき間違えて男性用の化粧室に入ってしまって。女性用の化粧室を幾ら探してもないからきっとそこなんだわ。申し訳ないのだけれど、探すのを手伝っていただけないかしら」
 納得した給仕が頷くのと、席を離れて歩み寄ってきていた切嗣が舞弥に何か問題でもあったのかと聞くのは全く同時だった。
 銃声のような、乾いた爆発音も。
 絹を裂くような悲鳴があがる。そしてどよめき。振り返った先には、わかりきった光景が広がっていた。ターゲットの心臓のあたりに仕込んだ小型爆弾が破裂したのだ。死にかけて痙攣する男の胸が、さながら狙撃でもされたかのように血で染まっている。
 後々になって検死を行えば、それが狙撃銃によるものではないことがわかるのだろう。それ以前に、外部から狙撃されたにしては店のガラスすら割れてはいない。しかし、今この場において、それを冷静に判断できる者はいなかった。標的のボディガード達ですら、あまりにも想定外の事態に呆然となっている。すべては一瞬のことだった。
 悲鳴と破裂音の反響が止んだ一瞬、客たちが雪崩のようにレストランから駆け出した。真っ青になってへたりこみかける演技をする舞弥を、切嗣が抱きとめる。そのまま力を失ったように見せかける舞弥の体を半ばかかえるようにして、切嗣も出口へと急いだ。混乱する人混みに揉まれながら、やっと出た店外の空気は冷たかった。夜空にはいくつもの星々が、人々の恐慌にも動じることなく瞬いている。
 二人は少しずつ人々から後ずさり、適度な距離を置くと、やがてしっかりとした足取りで歩き始めた。夜道に切嗣の靴音と、舞弥が履いているピンヒールの音が小さく連なる。これで今回の仕事は終わりだ。障碍もなくあっさり上手くいったのは、事前に気が遠くなるほどの準備を重ねたためである。だが、二人のうちどちらもそれを無意味に誇りはしなかった。するべきことをした。切嗣は、そしてその道具である舞弥は、あの男を殺害することによって、少なくとも数十人の命を救ったはずだった。切嗣は彼の信じる正義のために行動し、そして舞弥は切嗣のために行動する。
 背後から月明かりがさしこむ。切嗣も、舞弥も、無言のまま歩いている。歩みに合わせて伸びる影を見ながら、切嗣が不意にぼそりと呟いた。
「ああ、煙草が吸いたいな」
 そして我に返ったように舞弥を見やると、何を笑っているんだと、少しだけ人間味を感じさせる顔で言った。舞弥はそれには特に反応を返さなかったが、内心ではわずかな驚きを感じていた。それとともに、納得も。
 何を笑っているんだ、そう切嗣は言った。わたしは、笑っていたのか。無意識に。
 久宇舞弥は、人間として生まれ、道具として生きる女だ。彼女は世界中のどんなものに対しても感動することができない。けれど、切嗣のたった一言にはこれほどまでに容易に動かされる。切嗣とは、舞弥にとって彼女を道具として最大限に有効活用してくれる持ち主であり、また、それ以上の存在でもあった。
 わたしはもしかしたら、既に幸福なのかもしれない。
 嗅ぎ慣れた硝煙のにおいをほのかに感じながら、舞弥は切嗣のために、煙草を購入できそうな場所について思いを巡らせた。口許には、柔らかな微笑をたたえて。



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